Wikipediaで学ぶ2018年日本史Bセンター試験 第4問

豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略に際して多くの朝鮮人捕虜が日本に連行されたが、その結果として、捕虜により伝えられた学問や技術が日本に影響を与えたという側面もある。たとえば、藤堂高虎の軍に捕らえられ、伏見に連行された姜沆(かんはん)は、京都五山の僧であった空欄ア朱子学を教えている。

徳川家康は近隣諸国との安定した外交関係構築をめざし、朝鮮に対しては、悪化した関係を空欄イを通じて修復しようとした。その結果1607年に朝鮮の使節が来日し、両国間の講話が成立した。その後幕府は海外との交流を制限していくが、朝鮮とは、将軍の代替わりの際に使節の派遣を受けるなど、国家間の交流が続けられた。

日朝関係の修復過程では、朝鮮人捕虜の帰国が大きな課題となった。姜沆は1600年に帰国したが、講話成立後も多くの朝鮮人が日本に残されたままだった。なかには講話成立から30年以上を経てようやく帰国できた者などもいたが、終生日本で過ごした者も多かった。

空欄ア 熊沢蕃山 or 藤原惺窩

空欄イ 対馬藩 or 薩摩藩

この問題の関連キーワード

林羅山中江藤樹池田光政大学或問陽明学

正解は、ア:藤原惺窩 イ:対馬藩

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